あまりにもあまりになので

唐突に時間が空いたので、駄文をつらつらと書き連ねようと思います。
ちなみに、読んでる人がいない前提の個人用メモと銘打っておきながら、文体がどうにも話し掛け口調なのは、まあ言うまでもないですかね。
私生活が充実していないんでしょう、きっと。
それが第一の、そして一番の理由ですが、それとは別に、話し掛け口調の方が文が書きやすいというのがあります。
口語調、というやつですね。
それは自然なことで、僕らが普段話しているように、ほぼそのまま文章に起こせばいいだけですから、思考を『文章』に変換する手間がないだけ、随分楽なんですよ。
反対に文語調はまさしく『文章』ですから、思考すなわち『思ったまま、思いつくまま』という訳にはいきません。それらを整理し、表現技巧と語彙を駆使し、文字という媒体を十全に扱いこなして作り上げます。
洗練された文章というのは、読み手に心地よい、あるいはその世界観に没頭できる『場』を提供します。
一方で、この日記のように雑然とした、ただ文字を並べただけの空間は、そう言ったものとは程遠い『場』を生み出していることでしょう。


『言霊』という言葉は、案外耳にする機会が多くあるように思います。
言葉に霊が宿るというのは、森羅万象、自然現象にすら意思を見出し、そこに『神』の存在を信じた日本人らしい考えではあります。まあ、ほかの文化圏でも、似たような概念は存在するようなので、日本人独自とは言い切れないかもしれませんが。
しかし、まあおもしろい概念だとは思いますよ。ただ、言葉に霊が『宿る』のか『宿す』のか、そこは重要ですよね。
よくあることです。「あの人が言うと説得力があるけど、お前じゃあなあ」なんて。
よく言われることです。
言葉そのものに霊が存在するのではなく、人から発せられることで始めて言葉は霊を持つ。
現実に即して捉えるなら、つまりそういうことだと思います。
人が恣意的に言葉に霊を宿す。それは、つまるところ、言葉に宿る霊とは発した人の霊ということになります。
別の側面から。
たとえば、「俺はこう言ったじゃねぇか」なんてこと。齟齬が生じるというのは日常茶飯事ですね。
これについて、仮にそれぞれの言葉自体が霊を持つと言うのなら、その霊は誰にとっても残酷なほど平等で、変わりようのないものでもあります。ならば、そこに齟齬が生じる余地があるはずもありません。
ここで、もう一つ思うことは、発するときだけでなく、受け取る時にも言葉に霊が宿る
言葉の意味を履き違えるというのは別の問題としても、日本人は特にそうなのかな、相手の言葉の意味だけでなく、その言葉に込められた相手の真意を身勝手に解釈して受け取る傾向があります。そうした傾向が、思いやりや察しの心という文化に繋がるのでしょうが、今はおいといて。


言葉はそもそもが意思疎通の道具です。ということは、人が言葉を発する時、今僕がしているように駄文を書き綴ることすらも、何らかの意思を表明している訳です。
意思、思考、それを霊と言うのなら。
言葉によって、人は霊のやり取り、あるいは互いの霊を交えていると言えます。
そこに齟齬の発生する最大の原因があります。
だって、そうでしょう?
貴方の霊と相手の霊は違いますから、違うものをそう簡単には受け入れられないんです。
それに、もし貴方が貴方自身と対話する機会があったとしても、きっと貴方は貴方の言うことを理解するのに苦労することでしょう。
無意識的に発せられた言葉にすら、人は霊を宿すことができる。それは、当人が意識しなかったから分からないだけで、そこには当人の思考がちゃんと写されているからです。
そうですね、受け入れられないというよりは、知ることができないと言ってもいいかもしれません。
相手のすべてを知ることは、理想も込めて不可能とは言いきりませんが、限りなく不可能に近いとは思います。


だからこそ、僕らは言葉のやり取りだけですべてを済ませずに、互いに腹の探り合いみたいなこともしつつ理解しあう努力をするし、時には言葉を離れたコミュニケーションを取るんだと思います。
言葉って道具との付き合い方というのは、存外大切なものだと、しみじみ思う今日この頃な僕でした。

※適当に書いてるんで、その辺はお察しください。それぐらい、暇な時間が空いたんです。